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この日を境に、部の雰囲気は大きく変わった。
沢北と男たちの騒ぎはあっという間に部内に広まり、周囲からの声援のエピ
ソードも同時に伝わった。夜の練習では、全員の集中力が目に見えて増してい
た。
高校バスケの冬の頂点、12月のウインターカップへ向け、部員たちの闘志は
再び力強く燃え始めた。
深津たちレギュラーメンバーは、食い入るように試合を観戦した。各校の強
みと弱みはどこか。誰と誰をマッチアップさせるべきか。自分たちならどう戦
うか……。
夜は一部屋に集まり、記録係が録画した8ミリビデオでその日の試合を見返
しながら、分析と話し合いを繰り返した。あまりに遅くまで続くので、監督の
堂本が寝るよう諭しに来るほどだった。
沢北もすっかり落ち着きを取り戻した。河田の弟・美紀男によると、朝もき
ちんと起きているらしい。
気がつけば、あっという間に広島滞在最終日を迎えていた。
朝六時を過ぎると、部員たちがホテル前の駐車場にだんだんと集まってく
る。走る前に各々がストレッチや準備運動をするのだ。気の合う部員が集ま
り、自然といくつかの輪ができる。その中にはレギュラーメンバーが中心とな
った輪もあった。
「えっ」
松本が珍しく驚きの声を上げ、ランニングシューズの紐を締め直していた深
津は顔を上げた。
「どうした」二人の向かい側で柔軟をしていた野辺が訊ねる。
「監督が」
カントク、という四音に素早く反応した皆が一斉にホテルを見た。その様子
はプレーリードッグの群れを思わせた。朝の走り込みに監督は立ち会わないこ
とになっていたが、堂本はこちらに向かってまっすぐ歩いてくる。
「監督がきたぞ!」マネージャーが叫ぶ。全員が急いで立ち上がり、姿勢を正
した。
「おはようございます!」
駐車場に着いた堂本に声を揃えて挨拶する。堂本は「おはよう」と答えつ
つ、深津のいる輪に向かってきた。
「ロビーで少し話したいんだが、いいか」
声を掛けられ、深津は目を瞬かせた。
「……はい。走り込みは」
「深津は免除。じゃあな」
堂本はそれだけ言うとホテルへ引き返していった。
遠ざかる背中を見ながら、悪い想像が頭をかすめた。あの騒動がバレたのだ
ろうか。他の部員たちも同じことを思ったのか、気づけば多数の目が心配そう
にこちらを見ていた。
「ふかっさん」
声をかけてきた沢北は既に眉が下がっていて、深津は返事の代わりに坊主頭
を軽く小突いた。
「いて」
「考えすぎだピョン。沢北、もっと強気でいろピョン。それじゃアメリカでや
っていけないピョン」
「だって」
「河田、沢北が眠そうだピョン。何か技でもかけてやれピョン」
沢北の背後にいた河田に言う。河田が「よっしゃ」と指を鳴らすと、沢北は
「なんで!?」と悲鳴を上げた。いつものやり取りに笑いが起きる。
「行ってくるピョン」
「こっちは任せろ」
マネージャーと拳を軽くぶつけ合い、深津はホテルへ向かった。
早朝ということもあり、ロビーには堂本と従業員以外に人の気配はなかっ
た。外の景色がよく見える大きなガラス張りの窓に沿って、ソファと小さなテ
ーブルの組み合わせが並んでいる。堂本はその中の一組に腰掛けていた。
「監督、お待たせしましたピョン」
「けっこう続いてるな、『ピョン』」
向かい側のソファに腰を下ろすと、堂本がにこやかに言った。叱責されそう
な気配はなく、深津は胸を撫でおろした。
「最近飽きてきましたピョン。そろそろ変える予定ですピョン」
「そうか。次は何になるかな」
堂本は深津の変わった語尾を当初からすんなりと受け入れていた。教師に注
意されることが圧倒的に多かった深津にとってその態度は興味深く、好きな部
分でもあった。
先ほどは気づかなかったが堂本の顔が疲れているように見え、深津は口を開
いた。
「どうかしましたかピョン」
堂本は深津をまっすぐ見つめると、突然がばりと頭を下げた。「すまなかっ
た」
「監督っ」深津はあわててソファから腰を浮かした。
「おまえにはずいぶん世話になった。主将として厳しいこともたくさん言って
きた。今までこれだけ勝たせてもらったのに、最後の夏に勝たせてやれなくて
すまなかった」
「やめてください監督」堂本の肩に手をかけ起こそうとするが、びくともしな
い。
「湘北の研究不足は俺の責任だ」
「頭上げてください」
「俺にやれることはもっとあった」
「そんな」
自分たちが謝るならともかく、堂本から謝られることなど思いもしなかっ
た。深津は混乱しながらもなんとか言葉を紡いだ。
「監督が言ってくれたんじゃないですか。はいあがろうって。負けたことがい
つか大きな財産になるって」
敗戦という重すぎる現実を抱えながら更衣室へと歩く道中で、堂本はまっさ
きに深津の肩に手を置き、声をかけてくれたではないか。
「謝っちゃ駄目です。矛盾してます」
頭を下げている堂本の表情は窺い知れないが、そのまま続けた。
「この何日かでもう、いくつも見つけたんです。負けたから見えたんです。だ
から謝らないでください」
今だってそうだ。堂本がこんなにも気にかけてくれていたなんて知らなかっ
た。改めて感謝の念が湧き上がり、目が熱くなった。
エレベーターから家族連れが降りてきたのを機に、堂本はようやく頭を上げ
た。
二人でソファに座り直すと沈黙が訪れた。堂本は俯いて口髭に指を当ててい
たが、やがてひとつ、深々とため息を吐いた。ソファに深くもたれ、左右の肩
を順に揉みながら、苦い笑みを浮かべる。
「試合の後でずいぶん取材が来てたろう。何を話したのかほとんど憶えてない
んだ。……気づいたら、ホテルにいたよ」
「監督でもそんなことが……」
正直な感想が口を突いた。堂本は監督としては若いこともあり、普段から気
さくに接してくれるが、それでも深津たちにとっては立派な大人だ。山王OB
で大学バスケから実業団に進み、今は母校の監督と、憧れのキャリアをもつ大
先輩でもあった。
堂本は不思議そうに深津を見返した。
「いいのか、『ピョン』は」
深津は目を丸くし、ぷっと吹き出した。「驚いたら忘れましたピョン」
堂本もつられて笑った。「そういうこともあるのか」
しばし笑いあうと、一気に気が楽になった。堂本が「何か飲むか。奢るよ」
と立ち上がったので、二人でロビーの奥の通路に向かった。通路の先には大浴
場があったが、その手前に自販機が二台並んでいた。深津は紙パックのジュー
スを頼み、堂本はもう一台の自販機で缶コーヒーを買った。
先ほどのソファに戻り、揃って飲み物に口をつけた。堂本はうまそうに無糖
のコーヒーを飲んでいる。あれを美味しいと思えるのはやはり大人だ。深津は
そう思いながらオレンジジュースをストローで吸い上げた。
「今回の試合で思ったことがもうひとつあるんだ」
堂本の言葉で話は再開された。
「なんですピョン?」
復活した深津の語尾に口元を弛めた堂本は、テーブルに缶コーヒーを置く
と、ソファに座り直して背筋を伸ばした。深津もつられて同じようにする。
「山王の名前はおまえたちの鎧になる反面、重石になってるんじゃないか、っ
てことだ。そしてそれは、俺が学生だった頃より重くなりすぎた」
深津がなんと返したらよいか分からず黙っていると、堂本は続けた。
「ポーカーフェイスでプレイするのは山王の伝統だ。湘北の連中は真逆で、感
情の塊だった。あいつらがコートで思いきりぶつかりあってるのを見て、いろ
いろと考えちまった。なぜ何度突き落としても食らいついてこれたのか、体力
の限界を超えたプレイをあんなに続けられたのか……。湘北には背負う伝統が
なかった。まあその分、連戦するペース配分もできていなかったわけだが」
堂本は口髭を撫でながら、深津の目の奥を覗き込んだ。
「深津なら分かるんじゃないか? おまえのプレイスタイルは山王そのもの
だ」
「そのものですか、ピョン」
堂本の言いたいことは分かる気がした。山王の伝統は試合で〈役に立つ〉。
相手が勝手に山王の名前からイメージを膨らませ、自滅していくからだ。だが
その反面、深津たちにもプレッシャーがのしかかり、プレイを縛りつける。
「ちょっとここで待ってろ」
深津が答えあぐねていると、堂本はやにわにソファから立ち上がった。返事
も待たず足早にエレベーターへと向かい、扉が開くのももどかしそうに乗り込
む。ポカンとしながら表示盤を見ると、エレベーターはスルスルと上階へ上が
り、堂本の宿泊する階で止まった。
「…………?」
深津はわけが分からぬまま、しかし待つほかにできることはなく、ジュース
をちびちび飲みながらソファに座っていた。
五分ほど経った頃、エレベーターが再び下降してきた。扉が開き、堂本が降
りてくる。てっきり資料か何か手にして戻ってくると思っていた深津は、堂本
が手ぶらなのを見て眉を顰め、顔へと視線を上げたところでそのまま固まっ
た。
いつも几帳面に整えられていた堂本の口髭が、綺麗さっぱりとなくなってい
たからだ。
堂本は恥ずかしそうな素振りでソファに腰を下ろしたが、すぐに真剣さを取
り戻した。呆然と口を開けている深津に向かい、ずいと身を乗り出す。
「俺は山王バスケット部を変えていこうと思う。そのためにはまず自分が変わ
ろうと思った。馬鹿みたいだが、今すぐできるのがこれくらいしか思いつかな
くてな」
目を丸くしている深津に照れ臭そうに言う。
「俺より年上の監督が多いだろ。山王の指導者として舐められないようにと思
って伸ばし始めたんだ。だからこれは俺の鎧だ。それをまず脱ぐ。なんていう
か、決意表明だ」
深津の胸に嬉しさが膨らんだ。傍から見れば滑稽に見えるほどバスケットに
真剣な大人が目の前にいる。負けなければ見えなかったものが、またひとつ見
えた。
堂本は缶コーヒーの残りを一息に飲み干すと、意気込んで言った。
「俺に協力してくれ。ウインターカップで雪辱を果たそう」
「もちろんですピョン!」
深津は大きく返事をし、ソファから身を乗り出した。
「さっそくリクエストしていいですかピョン?」今朝も思っていたことを口に
する。「遠征先での一年生のモーニングコールは廃止してほしいピョン」
「もっともだ」堂本は頷いた。
「それから、全員坊主頭もやめましょうピョン。男子高校生にとって髪型は大
事ピョン。きっと士気も上がるピョン」
「なるほどなあ」堂本はいつもの癖で口髭を触りかけ、照れ笑いを浮かべた。
「検討しよう。深津はしてみたい髪型はあるのか?」
堂本に問われ、深津は目を瞬かせた。自分のことを訊かれるとは予想外だっ
た。しばし考え、閃いて人差し指を立てる。
「湘北に対抗して青坊主はどうかピョン」
「それは……」堂本は呆気にとられてから苦笑した。「今の日本では難しそう
だなあ」
今の日本では。声を出さずに喉の奥で繰り返すと、胸がちくりと痛んだ。理
由は分かっていた。ずっとモヤモヤさせていた問いが外に出たがっているの
だ。
深津は唾を飲み込むと口を開いた。
「監督。日本の男子バスケットも、サッカーみたいにプロリーグができる日が
来ますか? 世界と互角に戦える日が来ますか?」
少し前にJリーグが発足し、日本中が大いに盛り上がった一方、バスケット
のプロリーグはまだなく、大学卒業以降も競技を続けたければ実業団に入るの
が一般的だった。そうなると、会社員として仕事をしながらバスケットをする
という、二足の草鞋を履くことになる。加えて日本のバスケットは野球やサッ
カーとは比べ物にならないほど人気が低く、実業団のトップリーグですら空席
が目立つ有り様だった。
日本でいくら技術を磨いても国内レベルの選手にしかなれないと気づいたの
は、ジュニア選抜でアジア大会に出た時だった。〈ジュニアトップクラスのガ
ード〉などともてはやされていても、海外の選手にはまったく歯が立たず、こ
てんぱんにやられ、欧米以前にアジアの壁を痛烈に思い知った。かといって、
沢北のように海外へ飛び出せる環境やメンタリティが自分に備わっていないこ
とも、山王でアメリカ遠征した際に痛感していた。
「正直に答えるが」堂本は慎重に口を開いた。
「十年か、二十年か……時間はかかるだろうな」
深津は唇を噛んだ。分かってはいたが、改めて口に出されると悔しかった。
「厳しいことを言ってすまん」
堂本は目を伏せ、また顔を上げた。
「でもな、深津。俺が現役の頃は、沢北みたいにアメリカへ渡ろうという選択
肢なんて思いもつかなかった。日本のバスケットは、あの頃俺が想像した以上
の速さで前進している。日本人初のNBA選手も、そう遠くないうちに誕生す
るかもしれない」
「沢北にそうなってもらえたら嬉しいですピョン」深津の心からの願いだ。
「そうだな」堂本も微笑んだ。そして熱を込めて続ける。
「俺は信じてる。すぐには無理でも、いずれはプロリーグができて、選手はバ
スケットだけで食っていけるようになる。きっと将来はアジア一位に、そして
アメリカやヨーロッパとも互角に――」
堂本はふと言葉を切り、深津の目を正面から見つめた。
「深津。俺はな、そんな未来におまえがバスケットに関わっていてくれたら、
とても嬉しいよ。選手としてなら最高だが、指導者としてでも、他のどんな形
でも」