2
昨日の夕食前に監督の堂本から告げられた言葉は、敗戦に意気消沈していた
部員たちの心をさらに重くした。それは《明日からの宿泊予定はキャンセルせ
ず、インターハイ最終日まで広島に滞在し、練習しながら過ごす》というもの
だった。
朝は走り込み。午前中はインターハイ会場からほど近い高校へ移動し、堂本
の後輩が顧問を務めるバスケット部と合同練習。午後からはインターハイの試
合を観戦し、夕方から夜までは再び高校の体育館で汗を流す。広島滞在中のス
ケジュールはそのように組まれた。模擬試合のために足を運んで来てくれたO
Bたちも、そのほとんどが引き続き協力してくれることになったらしい。悔し
い気持ちは彼らも同じということだろう。
山王工高はOBとの絆が強く、インターハイ前にはたびたびOB戦が行われ
る。交通費以外は自腹なのにも関わらず、大学生OBだけではなく、実業団に
いるOBまでもが自分のチームメイトを誘い、泊まりがけで高校までやって来
る。
また、部員が寮から脱走した際も、沿線の駅にOBが張り込んで捜索を手伝
う。深津も河田も松本も野辺も(沢北は駅まで辿り着けなかったが)逃げ出し
て実家に向かう最中にOBに捕まり、ラーメンや定食を腹いっぱいご馳走にな
りながら話を聞いてもらい、学校まで送られた想い出があった。
朝の六時半、深津たちは声出しをしながらインターハイ会場周辺を走ってい
た。
深津は先頭で、隣には同級生のマネージャーがいる。一般的なイメージとは
違い、山王のマネージャーは「第二の監督」とも呼ばれるポジションだ。レギ
ュラー選手と同じように選ばれた者しかなれず、監督の代わりに練習を取り仕
切ることもある。
沢北はあれからなんとか起きたものの、モタモタと支度するうちに待ちかね
た河田が部屋に襲来し、プロレス技をかけられて半泣きになっていた。今は列
の後ろの方で走っている。
昨日の試合後から、沢北はいつにも増して周囲に甘えがちだった。もっと
も、過去にも似たようなことがあったため――その最たるものは、練習のきつ
さに耐えかねて寮から脱走し、深津たち上級生に発見された時だった――チー
ムメイトたちも対処を心得ており、特に気を使うことはなかった。放っておけ
ば次第に元に戻るだろう。
「深津」
「何だピョン」
マネージャーに声をかけられ、走りつつも散漫になっていた深津の意識は現
実に引き戻された。
「あいつら」
指差された方向へ視線を向けると、空色のTシャツを着た一団が遠くに見え
た。向こうも走り込みの最中らしい。
「あの色は豊玉ピョン」
「まだいたんだな」
マネージャーは意外そうな口ぶりだったが、豊玉も普段ならベスト8まで上
がってくるインターハイ常連校だ。山王と同じようにあらかじめ宿を確保して
いたのだろう。
負けた高校がその後どう過ごしていたかなど、深津にとっては大きな川の向
こう岸の出来事で、今まで気にも留めていなかった。だが今は、自分たちも同
じ岸にいるのだ。
愛和学院は山王対湘北の試合を徹底的に分析したようで、湘北の強みが完全
に封じられた試合内容は惨憺たるものだった。
桜木が怪我でいない上、湘北の面々は前日の疲労が抜けておらず、序盤から
動きにキレがなく、パスミスやスティールされてのターンオーバーを連発し
た。その後も普段ならばあり得ないようなミスが目立ち、前半終了時点で愛和
を24点差で追いかける展開となった。
ハーフタイム明けには三井がベンチに下がっており、愛和学院は徹底的にそ
の穴を攻めた。主将の諸星は容赦なく点を取り続け、残り3分の時点で100
点ゲームとなる。ダブルチームで執拗にマークされ続けた流川の動きも鈍く、
点差は埋まることなく広がり続けた。
宮城や赤木が必死に奮闘する中、大差をつけて試合終了のブザーが鳴った。
山王の部員たちはこの試合を客席後方から観戦していた。
湘北と愛和学院の両校がコートから去った後で、深津はようやく座席から背
中を浮かせた。隣にいる河田と松本を見るが、二人ともやはり苦い顔をしてい
る。
自分たちを倒したチームだからこそ勝ち上がってほしかった。他の部員たち
も似たような気持ちだったのだろう。周囲の誰もがしばらく口を開こうとしな
かった。
「稔とスコアシート見に行くけどどうするよ」
河田が深津に訊ねた。少し離れた列で、記録係の一年生が試合の経過を記録
し、8ミリビデオカメラで撮影もしている。今後の研究材料にするためだ。
「やめとくピョン」
深津はそう言って席を立った。今日はこれからあともう一試合ある。その間
に気分を変えたくて観客席を後にした。
観客席はコートと仮設のアリーナ席のひとつ上階にある。この建物にはあち
こちに吹き抜けが作られており、歴史の教科書で見たローマの神殿を思わせる
太い柱がその空間を支えていた。高い天井を見上げて息を吐くと、少し気持ち
が軽くなった。この先には開放感のある休憩スペースがあったはずだ。近くに
は自販機も。ジュースでも飲もうと、歩きながらポケットの財布を探る。
しかし、目的の場所ではちょっとした騒動が起きていた。
「栄治先輩ダメだって」
「離せ!」
「落ち着け沢北」
河田の弟・美紀男がもがく沢北を羽交い締めにし、一之倉が必死に宥めてい
る。彼らの前には男が二人いた。髪を後ろに撫でつけ、派手な柄シャツ、ハー
フパンツにサンダルを履いている。年は深津と同じくらいか、少し上に見え
た。
「おー、怖いのう、ポスターくん」
「図星突かれてキレとるんか」
「うっせえ!!」
深津が駆け寄ると、美紀男と一之倉が気まずそうに目を伏せた。沢北はわず
かに怯んだものの、男たちを睨むことを止めない。坊主頭の耳が真っ赤に染ま
っている。
「イチノ、どうしたピョン」
「絡まれたんだ。『ポスターの奴がいる』って……」
一之倉が苦々しげに答えた。視線の先の壁には、沢北が大写しになったイン
ターハイのポスターがずらりと貼られている。
「沢北」
名を呼ばれ、深津と目を合わせた沢北は途端に眉を下げた。
「ふかっさん……」
「沢北、分かってるよな、おまえは山王の」
最後まで言い終わらないうちに、沢北の目が潤み、唇が細かく震えだした。
おまえは山王のエースだ、その自覚を持て。この言葉を沢北は今まで何百回
となく言われてきただろう。深津は沢北を男たちから隠すようにして間に立っ
た。
「オマエらよう」
男のニヤついた声が飛んできた。
「あんなチームにどうやったら負けるんじゃ。全員腹でも下してたんか? 山
王も終わりじゃのう」
べったりと肌に貼りつくような声に不快感が込み上げる。深津はコート上で
するようなポーカーフェイスを保ちながら顔を向けた。
「なんじゃその目は」
「まあまあ、ええやろ」
一人の男は声を荒げたが、もう一人が笑いながら窘める。といってもそれ
は、いたぶることを楽しもうという笑みだった。立場上こちらが手を出せない
ことを知っているのだ。
深津はさりげなく周囲に目を走らせた。作り付けのベンチに座る人たちが不
安げにこちらを伺っており、野次馬も集まりだしている。今のところ会場スタ
ッフはいないようだが、この調子なら騒ぎが伝わるのも時間の問題だろう。
(さっさと謝って終わらせよう)
主将として判断した途端、別の声が響いた。
(こんな奴らに?)
頭に浮かんだのは昨夜の沢北だった。眠れません、と深夜に訪ねてきた後輩
は、開口一番に「最後のインターハイだったのにすみません」と謝ったのだ。
泣き虫で、お調子者で、詰めが甘くて――先輩想いで、誰よりバスケットが
好きで、練習と試合で文字通り身を削ってきた努力家は、自分のポスターが大
々的に貼られた会場で、大勢の視線に囲まれながら、あと五日間過ごさねばな
らない。それが沢北にとってどれほどの屈辱か。
カッと腹の底が煮えたぎる。深津は静かに右拳を握りしめ、男たちに向かっ
て一歩踏み出した。
直後だった。
「アンタら、さては昨日の試合見とらんな? 見とったらそんなことよお言わ
んわ、なあ南」
「ホンマやで。びっくりして噛んでたガム飲みこんでもた。湘北さん、昨日で
体力使い果たしたんやろ」
深津たちの左側から芝居がかった声が飛んだ。
目を向けて驚く。いつからいたのだろうか、豊玉高校のジャージを羽織り、
ポケットに両手を入れた岸本と南が、ベンチにだらしなく座っていた。
「はぁ? 何じゃ、オマエら」
威嚇する男を南はニヤつきながら見返し、ゆっくりと立ち上がった。そのま
まユラユラ近づいていく。全く怯える様子のない南に、男は思わず後ずさる。
「弁償してくれへん? オレのガム」
唐突に南が手を突き出した。しかし掌の形はほとんど手刀に近く、明らかに
喉元を狙っていた。男がのけぞってたたらを踏むと、南は「なんや、つまらん
のう」と言いながらポケットに手を戻した。
南と岸本のただならぬ雰囲気に、男たちは明らかに萎縮していた。その様子
を見た野次馬から声が上がりはじめた。
「豊玉の兄ちゃんの言う通り! 山王は凄かったわ!」
「あんな試合、あと十年は観れんぞ」
「冬の選抜がんばれよ!」
「良い試合だったよー!」
連鎖するようにあちこちから熱のある言葉が飛び交う。
深津は無意識に詰めていた息を吐いた。握った拳から力が抜け、先ほどとは
違う種類の熱が身体に満ちていく。背後で沢北が鼻をすする音がした。
場の雰囲気にたまらず、すっかり腰の引けていた男たちはついに身を翻し
た。だが今度は進行方向を大きな影が遮った。
「岸本さんも南さんもめっちゃ探しましたやん!」
「美紀男! 遊んでねえでちゃんと座っとけって兄ちゃん言ったろ!」
「深津、マネージャーが呼んでる」
豊玉の板倉が立ちはだかり、その横に河田と野辺が並んでいた。口にした内
容とは裏腹に、三人とも男たちを上から睥睨している。
「うわああ!!」「すんませんでしたあ!!」
四面楚歌となった男たちは頭をへこへこと下げながら、人垣をすり抜けて逃
げていった。周囲からどっと笑いが起き、かくして騒ぎは収まった。
野次馬が散っていく中、深津は岸本と南に歩み寄った。
「助かったピョン。礼を言うピョン」
「アンタらのためちゃう」岸本は深津の目を見ずに言った。「湘北が弱いと思
われたら豊玉も弱いことになるやんか。それが嫌やっただけや」
「オレもちゃうで、ガムのせいやで」南も横から付け足してくる。ならばお礼
にとポケットから財布を取り出すと「アホ、いらんわ!」と止められ、手ごと
ポケットに押し戻された。
「冗談の通じんやっちゃのう」
南は呆れ混じりの苦い顔をしていたが、ふいに真剣な眼差しを深津に向け
た。
「あんなぁ深津、これだけ言うとくわ。人を殴る時は親指を中に入れたらアカ
ン。外から他の指を握り込むんや。そうせんと脱臼するで」
息を飲んだ深津を、南は愉快そうに見返した。
「勉強になったピョン。次はそうするピョン」
頷いて答えると、南は、アホか、と笑いながら肩を軽くパンチしてきた。隣
で岸本もケラケラと笑う。少し離れて律儀に待っていた板倉が、そろそろ休憩
終わりますよお、と声を上げた。
「あー、湘北がこてんぱんに負けてせいせいしたわー」
「せやせや、スカッとしたわ」
照れ隠しのように悪ぶりながら、豊玉の三人は観客席へと戻っていった。
「深津、俺らも戻ろうや」
聴き慣れた声に振り返ると、いつの間にか休憩スペースはすっかり閑散とし
ていた。河田がぽつんと立っている。
「みんな行ったピョン?」
「残ってるのは俺とおまえだけ」
そう言うと河田は深津の肩に手を置き、耳に顔を寄せた。
「一年坊が青い顔してこっそり呼びに来たぞ」
いまさらながら背中がヒヤリとした。額が涼しくなり、そんなはずはないの
に視界がうっすら青みがかる。さっきの自分は完全にどうかしていた。岸本と
南が止めてくれなければ、危うく下級生の将来まで台無しにするところだっ
た。
深津は大きく息を吐きながら背中を丸めた。主将としての不甲斐なさに両手
で顔を覆う。
「気にすんな」
深津の背中に大きく分厚い手が置かれた。
「みんな昨日からどっか変になってんだ。今日の午前中、面白いぐれえシュー
トが入らなかったもんな、俺」
あっけらかんとした声と手の温かさが心に沁みた。入学以来寮で同部屋の河
田は、誰にも気づかれない深津の感情の機微を理解する名人だった。大らかな
明るさに深津はこの二年半、幾度となく救われてきた。
「沢北もよお、負けたのは自分のせいだなんて思い上がってよお。柄にもなく
謝りになんか来やがって、見くびられたもんだぜ。アイツはキャーキャー言わ
れて調子に乗ってるのがお似合いだろ、なあ」
深津がゆるゆると顔を上げると、河田はニカッと歯を見せた。
「行くべ」
肩を叩かれ、無言で頷く。歩き出した深津は主将の顔に戻っていた。
「俺も絶不調ピョン。これが続いたら即ベンチ入りピョン」
階段を一段飛ばしで上る深津を追いながら、河田は「大丈夫だ、松本も野辺
もイチノもバンバン外してっから」と笑った。