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寮でも旅先でも、山王工高バスケット部主将・深津一成の体内時計は実に正
確だ。
今朝もそうだった。客室の天井を見ながら右手を布団から出してわずかに伸
ばし、枕元の目覚まし時計――これだけはいつも寮から持ってきている――を
持ち上げることもなく、手探りでアラームのスイッチを切った。そういえば、
この時計はどんな音で鳴るんだったか。
深津は無駄のない動きで寝床から抜け出した。ベッドを軽く整えてそこに腰
掛け、視線を右へと向ける。
隣のベッドでは、長い手足を盛大にはみ出させながら二年生の沢北栄治が熟
睡中だった。ぐしゃぐしゃに丸まって足元に追いやられた掛け布団が、今にも
床に落ちそうだ。
「沢北」
声をかけつつTシャツの肩を揺らす。沢北はわずかに身じろいだが、目を開
ける気配はなかった。
昨日の真夜中、深津と河田の泊まるこの部屋に張りつめた表情でやってきた
バスケット部のエースは、二言三言と声を発するやいなや泣き出し、河田と二
人で慰めているうちに眠ってしまったのだった。理解できたのは「神社」とい
う単語と、しきりに謝られたことくらいだった。
ぐっすり眠れただろうか。それとも悪夢に魘されただろうか。沢北の両瞼は
見事に赤く腫れている。
「沢北、起きるピョン」
今度は少し強めに揺すってみる。沢北は目を瞑ったまま顔をしかめると、身
を守るように体を丸めた。大柄な男が胎児のように眠る姿にはおかしみがあ
る。深津は沢北の肩から手を離した。
NBA選手のイラスト入りのTシャツは、着古して首まわりが伸びきってい
る。その下には無地のハーフパンツ。すらりと伸びる脛は、陸上部と間違われ
そうなほど筋肉質で引き締まっている。
試合中、ほぼ走りっぱなしのスポーツであるバスケットでは、毎日の練習で
も、ボールを持つよりフットワークに多くの時間を費やし、徹底的に下半身を
鍛える。朝練では成績順に走る距離が決まるから、沢北は部員の中でも特に多
く走っているに違いない。
脛から踝へなぞる視線は踵で止まった。踵周辺の皮膚は硬くぶ厚く、所々が
ひび割れて、色素が濃く沈着している。激しいプレイの際にバスケットシュー
ズの内側と踵が靴下越しに強く擦れ、摩擦熱で火傷のようになることがある。
その繰り返しでこうなったのだろう。
人によっては痛々しささえ感じるだろうごつごつとした踵と、沢北のあどけ
ない寝顔は不釣り合いなほどだった。
隣の部屋から物音がして我に返る。目覚まし時計を見れば、決められた起床
時刻まであと五分弱だった。
山王工高バスケット部の上下関係は厳しい。遠征先では朝、一年生が分担し
て上級生の部屋を回り、起床時刻に起こすという、先輩から代々伝えられてき
た習わしがあった。深津は入学時から先輩を起こす必要も後輩に起こされる必
要もまったく感じず、そんな慣習は廃止して一向に構わないと思っているのだ
が、山王においては主将といえど自由に采配を振るえる範囲は狭い。せめて手
間をかけさせぬよう、前もって起きておくようにしていた。
「さーわーきーたー。一年がー来るーピョンー」
「ううう」
手を脇腹に移してゆさゆさと揺すっても、沢北は呻くばかりで起きようとし
ない。いざとなったら河田にプロレス技でもかけてもらうか。そう思った深津
は早々に動作を止めた。
古い設備のホテルのわりに、部屋はほどよい涼しさに保たれていたが、カー
テンの向こうからは夏の太陽が存在感を主張し始めていた。どれどれと手をか
け、目を細めながら開ける。
昨日の土砂降りが嘘のように、ガラス窓の向こうは雲一つない晴天だ。見慣
れない形の鍵に戸惑いつつ窓を押し開けると、途端にぬるい外気が腕と首筋を
撫でた。山王市とは種類の違う、空気を埋め尽くして掻きまわすような蝉の声
が聴こえる。この鳴き声のように、バスケットの街・山王は今日も、深津たち
の敗戦の話題で持ち切りだろう。
緒戦敗退。近年稀に見る成績で、山王工高は今年のインターハイを終えた。
そのことは大会参加者や関係者、高校バスケファンに大きな衝撃を与えた。
コートを去り、控室へ続く長い廊下を歩きながら、部員それぞれが負けた悔
しさを必死に受け入れようとしていた。松本はタオルを頭から被り顔を見せま
いとし、沢北は控室の入り口で泣き崩れた。あれだけ我慢強い一之倉すら、何
度も涙を腕で拭っていた。
しかし深津は、どこか他人事のようにこの状況を俯瞰していた。元より感情
の起伏が少ない性格ではあるが、試合後、保護者たちに慰められても、馴染み
の記者に激励されても実感が湧かず、今朝も気持ちは宙に浮いたままだった。
「ふかっさん」
背後から掠れた声がし、深津の思考は中断された。窓を閉めて振り返ると、
沢北が焦点のぼやけた目で上半身を起こしていた。
「オレ、なんでここにいるんすか……?」
狐につままれた顔の後輩に、深津はため息を吐いた。
「おまえが夜中に訪ねてきて、そのまま寝たピョン」
さんざん泣かれたことは言わないでおいた。沢北が憶えていないなら、それ
でいい。
「かあたさんは? 相部屋でしょ」
寝起きのせいで滑舌の甘い沢北は、不思議そうに部屋を見回している。
「おまえが河田のベッドで寝たから河田はおまえの部屋に行ったピョン。美紀
男と相部屋で寝たピョン」
とたんに沢北は飛び上がった。
「マジっすか! そんなことさせたんすかオレ!」
「嘘吐いてどうするピョン」
沢北の表情は感情と直結してくるくると変わる。今もみるみるうちにしょん
ぼりとうなだれた。大げさなほど素直なリアクションに、深津は思わず口元を
綻ばせた。もっとも、それが微笑みだと気づくのは河田くらいだろうが。
廊下を走る一年生の足音が聞こえてきた。